投稿日:2018年5月21日
カテゴリー:ピンク・レディー系
前述の沢田研二大先生 ”勝手にしやがれ” が、ある見方をすると日本歌謡界いや、日本音楽シーンの頂点にあったのではないか… 1977年のことですな。そしてこの年、そんな噴火中の活火山に油を注ぐような ”事件” が起きましたな。そう、ピンク・レディーの登場ですな。前年(1976年)にデビュー・シングル「ペッパー警部」でいきなり茶の間を沸かせ、調子に乗った彼女たちは「S・O・S」「カルメン’77」「渚のシンドバッド」と立て続けにとんでもないヒットを連発するわけですな。
そして運命の1978年が訪れるわけですな。同年の日本レコード大賞でみごとグランプリを勝ち取った「UFO」、大晦日の受賞シーンを今でも覚えているおっさんやおばはんも多いのではと思いますぞ。
ですがしかーし。ここでひとつ忘れてはいけないことがありますぞ。歌謡界に限らず、「ヒットしてなんぼ」のポピュラー音楽界において大切、いや、言い換えれば ”鬼門” なのが、メガヒットを出した『次』でありますな。よくある作戦が「二番煎じでごまかす」というやつで、中条きよし大先生の「うそ」→「理由」、辺見マリ大先生の「経験」→「私生活」、狩人の「あずさ2号」→「コスモス街道」、、つまり、前作のバカ当たりに乗って、曲調もちょっと似ていてそこそこ売れるが、そこそこ止まり、というのがよくあるパターンなわけですな。
そこへもってきてピンク・レディーはというと、次作の「サウスポー」は曲調もテンポもテーマも全く「UFO」と違い、かかんに新しい戦場で勝負、これがまたドッカーンと当たってしまったわけですな。こちらは日本歌謡大賞グランプリを受賞し、1978年はミー&ケイで染まった1年でありましたな。
(ダイナマイトポップス広報担当:サハフ情報相)